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【コラム・論文】ジャーナリスティックなやさしい未来

引地 達也 氏 
コミュニケーション基礎研究会代表

◆初詣の列

 引っ越し先の家屋のアンテナ不備なのか、引っ越した年末以来、テレビが映らない。年末年始の騒々しい番組を見ることもないので、そのままにしておき、新たな街の空気を楽しむことにした。テレビとともに心の雑音が消えたようで心地が良い。そして年が明けて近所の神社に元朝参りにいくと、夜店もない静かな佇(たたず)まいの、普段は通り過ぎてしまうような神社なのに、長蛇の列になっている。

 よく見ると、お宮前で1人か2人ずつ、木の棒の先に折った白い紙を束ねた祓具(はらえぐ)を左右に振り、お祓(はら)いを施している。地元自治会の方々が参拝者に祓具でのお祓いとお神酒(みき)を授けるのが、この神社の仕来(しきた)りらしい。寒空の中、人は静かに列をなし、この仕来りに従う。

 この合意形成は同じ文化圏で同じ地域で生まれ、もしくは生活する者どうしの相互理解で成り立つ。これが暗黙の地域とのコミュニケーション。この長蛇の列に加わり、黙ってその仕来りに従うことがコミュニケーションの第一歩である。

 列に身を寄せながら、私たちはこれまでも、これからも、この多くのコミュニケーションの中で生きて、死んでいくのだ、との感慨の中、年は明けていった。

 私は昨年末、「コミュニケーション基礎研究会」を設立し、そのようなコミュニケーションの切り口から人を活かし、社会を活気づけたいという思いを形にしようと日々悩んでいるが、少しだけ、自分なりに確信していることがある。それは「人を幸せにするコミュニケーション」を考え、実践することは、結局は「自分を幸せにするコミュニケーション」につながる、と。ホームページに掲載した「あいさつ文」では、その思いを表現した。

以下ホームページ引用(http://communicationresearch.jimdo.com/)

  • 人を幸せにするコミュニケーション
  • 人を大切にするコミュニケーション
  • 人を思いやるコミュニケーション
  • 人を助けるコミュニケーション
  • 人を守るコミュニケーション
  • 人を活かすコミュニケーション
  • 人を育むコミュニケーション
  • 人が生きるコミュニケーション

これは私が目指しているコミュニケーションのかたちです。

しかし、「人」と言うと、他人に何かを「しなければいけない」と思って、

気負ってしまいます。

そもそも、他人とのコミュニケーションで悩んでいる人に、

いきなり「人」を意識させてしまうと、

嫌気がさす気持ちにもなるでしょう。

よくわかります。

それでは、「人」を「自分」に置き換えてみましょう。

  • 自分を幸せにするコミュニケーション
  • 自分を大切にするコミュニケーション
  • 自分を思いやるコミュニケーション
  • 自分を助けるコミュニケーション
  • 自分を守るコミュニケーション
  • 自分を活かすコミュニケーション
  • 自分を育むコミュニケーション
  • 自分が生きるコミュニケーション

どうでしょうか。

少し気が楽になったのでしょうか。

ここからはじめてみましょう。

このフレーズ一つひとつが、

私たちが目指すコミュニケーションの輪郭です。

ただ、これらを形作るのは至難の業です。

私はこれまで記者としての取材現場、

コンサルタントとしての経営課題の解決現場、

営業実績を上げるための消費者との営業現場、

社会活動においては震災の修羅場や多くの喜怒哀楽の感情とともに、

コミュニケーションを繰り返してきました。

自分なりに全身で人の気持ちを受け止めて、

全力で答えを出そうと取り組んできたつもりですが、

失敗も数知れません。

それでも、こうして幸せに生きているのは、

やはり多くのコミュニケーションに助けられているから。

研究会では、この経験を活かして、

コミュニケーション領域での実践と研究の中から、

社会で利用しやすい形に抽出してまいります。

常に社会は変化していきますから、最終結論はありませんが、

現在、私が提供する最も有効な形を模索してまいります。

よきコミュニケーションとともに、

よき仲間とともに、

そして自分を育み、幸せにしていこうとする

すべての人とともに。

(引用終わり)

◆失敗談も盛り込んで

 講演などでコミュニケーションについて話す時、私の数多くの失敗の話に共感を持たれることが多い。きっと登壇している人も自分と同じように失敗している、という安心感を与えるからなのだろう。だから、今後、コミュニケーションに関する各論を展開する中で、失敗談も積極的に盛り込んでいこうと思う。

 先ほどの「人を幸せにするコミュニケーション」から「人が生きるコミュニケーション」までの8項目もそれぞれ個別に説明し、実際の生活に役立てる内容にしていきたい。同時に、国際社会の諸問題や社会情勢の現実の問題を見据えながら、マス向けにも個人向けにも通用するコミュニケーションの形を、ここでも模索していきたい。

第2回

◆不幸せは自殺で

 前回、「人を幸せにするコミュニケーション、人を大切にするコミュニケーション、人を思いやるコミュニケーション、人を助けるコミュニケーション、人を守るコミュニケーション、人を活かすコミュニケーション、人を育むコミュニケーション、人が生きるコミュニケーション」はそれぞれで「人を」から「自分を」に置き換えて考え、その各論を展開していくと書いた。

 そして、今回から書こうと、最初の「幸せにする」コミュニケーションについて考えたが、その基本である「幸せ」についての説明は難しい。幸せの概念が固定できず、幸せは主観によって変わるから、幸せとは何か、と問われた時、欲望を満たすこと、と言えるかもしれないし、もっと大事な答えがあるかもしれないから、その先で彷徨(さまよ)ってしまう。

 答えを探しても科学的な根拠は見つからない。だから、わかっている事実だけで確認する方法として、逆説的に考えてみる。つまり、幸せの正反対に位置付けられる不幸せとは何かと問うてみる。幸せは生きることを前提としているから、不幸せは、自分を否定し、自分を亡くすことと言えるだろう。その象徴行動が自殺である。

 日本の自殺者は1998年から14年連続で3万人を超えて長年の社会問題となっており、政府もメンタルケア分野での対策を打ち出し、2012年から3万人(ただ未遂者や遺書のない自殺と断定されないものを含めると10万人以上と言われる)を割り込んだ。だが、これは政府の対策よりも、自殺志願者特有の心理を癒す社会の窓口がオンライン、オフライン共に広がり、増えたのが背景にあると私自身は見ている。

 ただ3万人、2万人といった議論は1人の死という事実と当事者と関係者の苦しみとはかけ離れてしまうから、あまり重要ではない。むしろ最近の傾向として、20から30代の自殺の増加が気になる。そして、全体の70~80%が心の病を患っていたという統計がある。だから自殺は心の病であると言ってもよく、その病には、心も体も充実しているはずの20~30代が最も多い。

◆崇高で儚いもの?

 この心の病は、社会や関わる人と関係を断絶する、という選択として自死に至る。つまりコミュニケーションを閉ざすことが多いパターン。人と軽妙なトークをして「じゃあ、死ぬよ」と言って逝く人はいない。

 だから、コミュニケーションが断絶する状況は不幸せであり、この事実から導けば、幸せとはコミュニケーションが円滑にとれている状況であろう。「人を幸せにするコミュニケーション」と言ってみたが、コミュニケーションそのものが幸せの条件であり、ここではその条件を備えること、さらに条件を備えた上で人を「より」幸せにするのを目的としていると考えたい。

 もう少し幸せについて考えてみると、幸せの概念が国や地域によって違うことが、多くの幸せに関する研究者から示されている。

 西洋の価値観で言うと、ソクラテスの言葉を基本とするのが一般的。すなわち「人生の課題は良い人間になることである。つまり最も崇高なものを手に入れることである。そして、その最も崇高たるものが幸せなのである」。

 一方で私たちはつかの間の幸せのために日々、我慢をしたり、苦労をしていたりするのかもしれない。だから、と言って笑い飛ばすのが数々の名言を残した劇作家ジョージ・バーナード・ショーである。「生涯絶え間ない幸せ? 誰一人としてそんなことに耐えられる者はいない。そんなものは地獄でしかないのだから」 国の違いでは、米ロで「自分が幸せの時、周囲に幸せであることを伝えるか」の質問に「はい」と答えたのが、米国人60%、ロシア人15%。米国人の多くが幸せと喜びなどの肯定的感情の結びつきを意識し、それを表現することにためらいがないのに対して、ロシア人の幸せは「無垢(むく)で儚(はかな)いもの」(米カリフォルニア大リバーサイド校ソニア・リュボマースキー教授)というイメージが強いので、人に伝えるという行為にも、その考えが影響しているようだ。

 アジアの国では、幸せは手放しで喜ぶだけのものではなく、その背後にある否定的な感情も同居し、日本人と韓国人への調査では、一人の幸福には限界がある、と考えていて、やはり不幸なしには幸福は語れないという感覚があるらしい。

 これをコミュニケーションにあてはめれば、不幸でストレスをたっぷりと味わうコミュニケーションを経て、幸せのコミュニケーションに至るのが幸せへの階段なのだろうか。特に米国の独立的自己観に対して協調的自己観の日本では、幸せの概念が個人のものという印象があり、自ら幸福に近付くのを憚(はばか)る気持ちも残り、幸福を共有する行為が暗黙の上に求められている錯覚がある。

 そのため、共有化の役割を担うコミュニケーションの位置づけは重要。幸福をテーマにしたコミュニケーションの観点で言えば、民主党政権時代、菅直人首相は不幸になる要素を少なくする「最小不幸社会」をつくることを目標に掲げた。その視点は市民運動家出身らしく、市井の人が考える「普通の暮らし」をより多くの人へ浸透させるという視点に立った、菅首相が過ごしてきたコミュニケーションの世界で培われた発想であり、幸せ感といえる。現在の安倍晋三首相が進めるアベノミクスをはじめとする政策やそのメッセージは、欲望の経済を循環、肥大化させようという上から目線の幸福コミュニケーションで、それは安倍首相の出自が影響している。

◆幸せは関わること

 さて、冒頭の命題である自分を幸せにするコミュニケーションは何かというと、関わるためのコミュニケーションだと考えている。

 一方的な主張や一方的な受け手ではなく、人や社会と関わって、自分の発したものが、受け手に承認されて、レスポンスが返ってくる。この循環は、人への共感が必要になり、情報のやり取りだけでは済まされず、心が介在するから喜怒哀楽が伴ってくる。

 ドイツの幸福論から言えば、この起伏のある人間の諸活動のひとつが幸せである。このコミュニケーションの好循環を生み出すには、自分自身の外向けのコミュニケーションと同時に常に自分の内面とのコミュニケーションも必須で、自分が今、生きて、自分の気持ちは何を求めているかを考え、何らかを発信して、そして承認される。

 私はコミュニケーションのお話の中で、その実践の初歩段階として、アウターとインナーのコミュニケーションを意識することを勧めているが、障壁の多い世間でつまずいて、その循環が滞った時、人はストレスを感じる。自分が幸せになるための好循環は、そんな世間に一喜一憂しないことであり、外のあらゆる雑音は放っておいて、自分が心地よいコミュニケーション世界を作り上げて他者と関わっていく順序で勧めたい。

 すべては、自分からはじまる、と意識すること、そしてはじめること。これが幸せの出発点であり、人の原点である。と書いてみて、ちょっと心が弱っている人には難しいメッセージだと考え、出発点としては、「今日も楽しかった」「明日はよい日になる」と、自分の心に(インナーコミュニケーション)そっとつぶやいてみることが今からできることである、と付け加えたい。

次回は「人を大切にするコミュニケーション」を説明します。

第3回

◆人質の命を守るのは

 前回の「人を幸せにするコミュニケーション」に続き、今回は「人を大切にするコミュニケーション」だが、次に続く「人を思いやるコミュニケーション」までを同時に展開したい。それは3月の過激派組織「イスラム国」(IS=Islamic State)による日本人人質殺害を受けての私なりの反応でもある。

 まずは、「人を大切にする」ということは、人の存在そのものを尊重し、生きているその人の命を生かすための行動が、いわば自分が生きている証しとする考えである。そして、「人を思いやる」は、その生きている人の「思い」や感情を慮(おもんぱか)ったり、察知したり、想像したりして、人の心に向き合う姿勢から発した心持ちだと考えている。

 「大切にする」のは、人の生を肯定することが、社会生活の根本であるから、幸せに向かおうとする私たちの目標を支える柱のようなものである。国家が、この人が生きるということと、人が自由に考え行動する生活を基盤に「生きる」状態をどう考えるかが、その国の寛容性や人権意識に直結する。

 国際的に死刑を廃止する国家が多いのは、ヒューマニズムを前提にした社会において、多様化の中での合意事項として「殺す権利は誰にもない」が、一般化されているからで、現在、イラク北部やシリア地域で勢力を拡大しているISが行っているとされる公開処刑は、人を大切にしない行動の最たるものだ。また、北朝鮮でも中国でも民主国家ではない場所では、教義や独裁者や、一部の権力者が牛耳る仕組みが人の命を蹂躙(じゅうりん)し、人を大切にしない行為が繰り返されている。先進国の中で死刑制度のある日本は珍しい存在だ。

 日本など民主国家の多くの憲法が、国家が国民の命を守る義務がある、とうたっている。だから日本政府はISに捕らえられ人質となった日本人2人の救出に動き、国民の多くが救出を願った。 これは国家と社会の前提であり、日本政府も今回の公式見解は「我々は自己責任論には立たない。国民の命を守るのは政府の責任であり、その最高責任者は安倍総理だ」(世耕弘成官房副長官)。政府が国民に説明した言葉の一つひとつが「人を大切にするコミュニケーション」であった。

◆孤高の心持ち

 しかしながら、2人とも殺害されるという最悪の事態を受けて、国民の意見や政府の見解も多様になってきた。事件の反省を、政治的な動向とからめるか、人道からの見地から発言するかによって、論点は分かれるが、人を大切にできなかった反省の次にあるのは、人を思いやるコミュニケーションであるべきである。殺害された方の思い、そして遺族や関係者の思い。そこへの想像力から発するコミュニケーションが、今後社会で生き交わすべきだと考えている。

 特にフリージャーナリスト後藤健二さんについては、多くの方が無念さをメディアで発信している。私自身、後藤さんの心情を考えると、胸をわしづかみにされたような苦しさに言葉が見つからない。ジャーナリストの端くれとして、少なからず同じ立場に近かった者として、彼の見た現場の情景や困難な中にある人の実情を伝え、助けたいという行動に至った思いと、捕えられ、晒(さら)された自分の置かれた立場での諦念の境地がリアルに思えてくるから。

 公開された映像から発せられる無言のメッセージは、自分の命への諦めと、地域の平和を願う希望が、同時に発せられているようで、切ない。それは失礼ながら、既存メディアの方々には分からない境地なのだと思う。

 フリーという弱い立場であり、生活の保証もない中で、伝えなければいけないことを伝える、という動機だけを頼りに現場に向かう。それは孤高の心持ちである。社会は、その姿を身勝手だというかもしれない。しかし、それは彼の生き方であり、彼が人を大切にしようとしたコミュニケーション手段だったのであろう。

◆声の積み重ね

 3年前、私は組織の記者を辞め、経営コンサルタントで生計を立てながら、建国間もない南スーダンへ、取材ではなく、ボランティアとして国の再建のお手伝いをしたいと、乗り込んだ。建国の浮かれた気分で、こう着状態ながら内戦が続いていた緊張感を忘れた街で、私は街並みの写真を撮っていたことで警察に連行された。自分の自由が奪われた時の何とも言い難いざらついた心持ちを今でも時々思い出す。

 教育を受けられなかった子供たちにその機会を与えられないか、と日本から遠く離れたDNA構造も脳内神経伝達物質の構造形式も、この地球上では、最も日本人とはかけ離れているアフリカのスーダン人にそんなことをするなんて、大きなお世話を超えたおせっかいかもしれない。しかしながら、誰かがやらなければならないのだ、とその時は思い、自分の安全の保証は自分なりに考えて行動をした、とその時は思った。

 後藤さんも同じく、自分がやらなければならない行動をして、そして悲劇に遭った。今、私が、自分の領域で話すならば、今社会は、彼を思いやるコミュニケーションを展開する時である。彼が訴えたかったのは紛争で犠牲になる市民、そして子供たち。ルワンダで、アフガニスタンで、彼は乾いた風を受けながら、争いで荒廃した街角に立ち、そして人に会い、話を聞き、そこに伝えるべきものと出会い、自分の行動の意味を確認しながら、これまでの仕事を積み重ねてきたのに違いない。

 その生き方は、尊重しなければならないし、大切にしなければならない。そして、彼の意思は何だったのか、そこを思いやらなければいけないが、アフガニスタンの乾いた風に向かう感覚は同じ現場に立った人だからこそ分かるものも多い。

 だから、後藤さんの気持ちを、行動を、肌身で感じられる人はどんどん発言してほしい。日本社会が、人を大切にし、人を思いやる社会であるために、その声はもっと大きくなってほしい。その後藤さんを「思いやる」コミュニケーションの積み重ねは「人を大切にする」社会をつくるはずである。

第4回

◆関わり合いで生きている

 人は関わり合いの中で生きている、ということは誰もが分かっているはずだが、とかく忘れてしまいがちだから、私がセミナーなどで話をする際には、実感を伴う事例を紹介して「この世は関わり合いである」ことを強調し、その上でコミュニケーションの話を展開している。

 原始社会であろうがテクノロジー社会であろうが、関わり合いこそがコミュニケーションであり、コミュニケーションは関わり合いである。「人を助ける」と書いてしまうと、自殺志願者の駆け込み相談である「いのちの電話」や、心理療法士の傾聴などの、少々「重い」コミュニケーションを連想してしまいそうだが、これらは「手段」であり、目的は「関わり合い」から自分の生命を肯定することである。

 最近、実際に人を助けるのは「関わり合い」であることを自殺防止に取り組む3人の有識者から話を聞き、実感した。

 1人は自殺防止に取り組む特定非営利活動法人、自殺対策支援センター「ライフリンク」代表の清水康之さん。自殺者の遺族への支援も行う中で、「大事な人を亡くした人は、新しい人生のストーリーを描けずに苦しんでいる」とし、「物語のつむぎ直しを行える、安心して悲しめる社会にする」のを目標にあげる。

 自殺者も遺族の生きにくさも、結局日本社会が核家族化の進行で、孤立しやすい環境を作り上げている、と指摘し、「つながり」こそが、社会に求められているセーフティーネットであると説く。

 もう1人。1991年から「あなたのお話お聴きします」活動を開始し、今年1月末まで6031回の悩みなどの話に耳を傾けてきた「自死・自殺に向き合う僧侶の会」共同代表の前田宥全(ゆうせん)さん。往復書簡でも心の悩みに接した経験から、最近の傾向を「生き方が分からないという方が多くなってきた」と言う。

 主に僧侶のネットワークであるこの組織が大切にしていることとしてこう話す。「関わっていくという態度を示すことが大事です。特に私たちは対話をするようにしています。どのようにその方(相談者)が生活しているのか、その都度話して確認していきます。それは関わっていくということです」

◆孤独からの解放

 最後に1人。主に20代の自殺志願者をターゲットに、インターネットを駆使して防止に努める特定非営利活動法人、OVA代表の伊藤次郎さん。日本で20代の死因の半分が自殺という事実は先進国でも高い割合であることを問題視し、インターネットで「死にたい」「助けて」などの検索を手掛かりに、志願者に自殺阻止のアプローチをしてきた。

 たどりついた志願者とメールでやりとりをすると浮かび上がってくるのは、悩みを誰にも相談できない「孤独感」。たとえそれが「女性にふられた」という人にとっては年中行事のような出来事でも、ある人にとっては死の淵に追いやられる絶望感。救うのは、孤独からの解放であり、関わり合いだ。

 伊藤さんは、志願者との「関わり合い」を通じて「自殺に追い込まれない社会の基礎的マインド」を形成する必要性を説き、まず第一歩として自殺志願から立ち直る人に「自分の人生を通じて誰を幸せにしたいですか?」を問いかけるという。「欲望に際限はない。欲望で本当に幸せにはなれません」と話し、その欲望の対抗軸としては、やはり人との関わり合いから生み出される新たな価値観が重要だとの認識だ。

 自殺から導かれる共通したこれら「関わり合い」のキーワードは、日本社会が求める普遍的な課題ともいえる。人を助けるコミュニケーションとは、今の日本社会では人と関わりを持とうとする姿勢と、その姿勢で発する言葉そのものでもある。

 その上で、場面によっては指導や助言、そして傾聴という段階に入っていくのであろう。特に「聴く」という姿勢を確立するのは、人を助ける前提とも言える。つまり、人を助けるには、その対象となる人の信頼がなければならず、信頼を得るには、「話す」ことより、「聴く」姿勢から生まれる。

 先日、私は引きこもりだった男性と対面し長時間かけてライフストーリーを聴く機会があった。彼が社会に接しようと思ったのは、「話を聴いてくれる人がいる」という瞬間だったという。人への不信から、一人でも信頼する、という実感が再度、彼を社会に向かわせた。従って、「関わり合い」の次に来るのは「聴く」というコミュニケーションが人を助ける、とすると、なかなか「話す」にたどりつけないから面白い。

◆傾聴の技術

 「聴く」にはコツがいる。これは財団法人メンタルケア協会の示すポイントが参考になるので、いくつか列記する。 「対話は理解よりも共感」「共感とプラスの言葉が生きる希望を生み出す」「早急な助言は話し手の反発を招く」「相手の言葉を丸ごと受け止めてあげる」「身を差し入れて聴くことで、相手を孤独感から救う」「説得して人を動かそうとしないこと。話を聴いてあげれば心は自然に動く」。

 これらの技術を持つことで、人を効果的に癒やし、助けることになるはずだが、やはり人を助ける、という大事業をやるには、その心構えが問われる。心構えのヒントとして、最後にナイチンゲールの言葉を引用する。

「ランプの貴婦人」と呼ばれ、病床の間、ランプを手に歩く姿に、患者らは生きる希望を見いだした。その彼女は「たった一人でもいいから、なんでも自分の思っていることを率直に話せる相手がいてくれたら、どんなにありがたいことだろう」と考え、さらにこう言ったという。「寄り添ってくれる人が一人いれば、孤独ではありませんし、絶望もしません。希望があれば、命の火は燃え続けます」

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