日本では「元気な内に死ぬことを考えるのは縁起が悪い」という考え方が根強く、遺言に対して少しネガティブなイメージを持つ人が少なくありません。しかし、司法書士の伊坂重郎氏が指摘するように、遺言は「残された家族間の無用な争いを防ぎ、面倒な手続きを省略できる、非常に有用なツール」です。遺言は、単に財産を分けるための事務的な書類ではありません。
専門家の知見に基づき、財産の分配という枠をこえ、家族への想いを伝え、未来のトラブルを防ぐための、意外と知られていない遺言の活用法をご紹介します。
1. 相続トラブルは「数億円」ではなく「数百万円」で起きる
相続トラブルと聞くと、テレビドラマに出てくるような、何億円もの資産をめぐる富豪一族の争いを想像しがちです。しかし、現実に起きている相続問題の多くは、実は「100万円単位」の金額をめぐるものです。ある編集者が体験した、忘れられないエピソードがあります。関西で眼鏡店を営む父親と、3人の兄弟がいました。長男と次男は都会の上場企業に勤め、実家に帰ることは滅多にありませんでした。父親は若くして奥様を亡くし一人暮らしでしたが、末っ子だけがその父親の希望で店を継ぎ、長年そばで面倒を見ていました。1990年頃のバブル経済の最中、父親が亡くなります。もともとは数千万円ほどの価値しかなかった店の土地が、バブルで億を超える価格に高騰。葬儀が終わると、兄二人は法律に則って「3分の1ずつ」の権利を主張してきました。月商300万円足らずの眼鏡店に、そんな現金はありません。末っ子は、それぞれに数千万円を支払うため、銀行から多額の融資を受けるしかありませんでした。後日、彼は怒りと悲しみの入り混じった声でこう語ったそうです。「父親を30年も面倒見てきたのに、こんな仕打ちにあうなんて」仲の良かった家族が、相続をきっかけに壊れてしまう。これは誰にでも起こりうる悲劇です。しかし、この悲劇は、遺言の力を知っていれば、避けられたかもしれません。
2. 法的効力のない「付言事項」こそが、家族を救うことがある
遺言は、民法で定められた書式に従わないと無効になってしまいます。しかし、その要件さえ満たしていれば、法的な効力を持たないメッセージを自由に追加することが許されています。これを「付言事項(ふげんじこう)」と呼びます。付言事項には字数制限がなく、「今まで本当にありがとう」「これからも仲良く暮-らして下さい」といった、家族への手紙のようなメッセージを自由に書き記すことができます。これがなぜ重要なのでしょうか。それは、 財産をどう分けたかの「理由」や「気持ち」を伝えられるから です。例えば、長年自分を献身的に介護してくれた妻に全財産を遺したい、と夫が考えたとします。遺言書にそう書くだけでは、子供たちが自分たちの権利(遺留分)を主張し、争いに発展してしまうかもしれません。しかし、そこに付言事項として「なぜそう決めたのか」という妻への感謝の気持ちや、子供たちへの想いが綴られていればどうでしょう。残された家族もその意図を理解し、納得しやすくなります。感情的な対立を防ぐ、何よりの緩衝材になるのです。先の眼鏡店の話について、編集者はこう振り返っています。もしはないのですが、メモだけでも良いので、父親が面倒見てくれた末っ子に感謝の言葉を残していたら、もう少し変わっていたかなと思います。残念なことに、この話には続きがあります。多額の借金を背負った末っ子の先輩は、夫婦で唯一の趣味であったゴルフの帰り道に交通事故に遭い、二人とも亡くなってしまったそうです。人生は何が起こるかわかりません。だからこそ、法的な効力がない言葉こそが、家族の心を繋ぎ、救うことがあるのです。
3. 大切なペットに「財産」を遺す、唯一の方法
「愛するペットが、自分の死後も安心して暮らせるようにお金を遺したい」と考える方は多いでしょう。しかし、日本の法律ではペットは財産を所有する権利が認められていないため、遺言で「ペットに財産を譲る」と書いても、残念ながら法的な効力はありません。このような場合に活用できるのが、「負担付遺贈(ふたんつきいぞう)」という方法です。これは、信頼できる友人や親族に財産を遺贈するのと同時に、「その財産を使って、ペットの面倒を生涯見ること」という義務(負担)を法的に負わせる仕組みです。これにより、あなたの代わりに大切なペットの世話をしてもらうことを、法的に約束させることができます。もちろん、この方法を使う上で最も重要なのは、相手の意思です。必ず事前に相手に相談し、「もしものことがあった場合」として、明確な了承を得ておく必要があります。
最後に
遺言は、単なる財産目録ではありません。それは、あなたが最も大切に思う人たちへ、感謝の気持ちを伝え、未来の悲しみを防ぐための強力なコミュニケーションツールです。「一度書いたら変更できないのでは」と不安に思うかもしれませんが、そんなことはありません。遺言は、ご自身の体調が万全であれば 何度でも書き直しや取り消しができます。 だからこそ、まずは一度、ご自身の想いを形にしてみてはいかがでしょうか。財産だけでなく、あなたは愛する家族にどんな想いを遺したいですか?
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